丸太との格闘から始まった人生。富士山麓でログホームをつくり続ける経営者の信念

代表宮下 俊吉

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マスコミ志望から、田舎の家業へ

富士山の麓で、ログハウス、そして住まいとしての「ログホーム」をつくり続けてきた株式会社ビボーン。代表の宮下俊吉氏は、会社が36期を迎えた今、「仕事がやっと楽しくなった」と語る。その道のりは、決して平たんなものではなかった。

宮下氏は早稲田大学の社会学部に入学した。在学中に所属したのは、世界旅行研究会というサークルだ。北米、南米、アジア、アフリカ、ヨーロッパと地域ごとに班があり、宮下氏はアフリカ班の班長を務めた。ただ、貧乏学生だったため在学中は海外に行けず、国内の合宿で北海道や九州、四国を、おおむね150キロほどテントを担いで歩いたという。

卒業後の進路として志望していたのはマスコミ系だった。しかし、その道はかなわなかった。宮下氏は田舎に戻ることを決める。家業は緑化、山の管理の仕事。木を生産する林業ではなく、林道を入れたり苗木を植えたりする「管理林業」だった。

「田舎に戻ってくるのに、まあ、これもちょっと生意気な言い方なんだけど、ログハウスを作るってことを知ってれば人生豊かになるかな、という理屈をつけて」

そう笑って振り返る宮下氏だが、この「ログハウス」との出会いが、その後の人生を大きく変えていくことになる。

丸太に惹かれ、カナダへ渡る

卒業と同時に、宮下氏はログハウスをつくるスクールに参加する機会を得た。直径30センチ以上もあるまっすぐな丸太を、人の力とチェーンソーで加工し、自分の頭でレイアウトを考えながら組み上げていく。大自然の恵みである丸太とダイナミックに格闘する。その醍醐味に、宮下氏は本能的に惹きつけられた。

「これをダイナミックに生かす。これ、やっぱり醍醐味ですよね。それをやっぱり本能的に憧れ、あるいは本能的に受け入れたっていうのは事実ですね」

そのスクールには、カナダから講師が来ていた。スクールが終わってすぐ、その講師から「秋にカナダでスクールをするのだが、希望者はいないか」と声がかかった。宮下氏は迷わず手を挙げ、そのままカナダへ渡った。奥さんを日本に残しての一人での渡航で、「今でも申し訳なく思ってます」と話す。サークルの仲間たちは「なんでカナダ?」と驚いたそうだ。

帰国後は家業に従事しながら、ログハウスの仕事を実家の緑化事業の一部門としてスタートさせた。最初のきっかけは、先輩からの相談だった。宮下氏がログハウスに興味を持っていると聞きつけた先輩から、ログハウスでレストランをつくりたいという話が舞い込んだのだ。全体のコーディネートは先輩の工務店が担い、宮下氏はログハウスの骨組みを担当した。

大型物件と、1億2000万円の試練

その後、宮下氏のもとには大きな物件の話も届くようになる。一人では手に負えない規模の仕事には、スクールの仲間や先輩たちに声をかけながら取り組んだ。朝霧スクエア、忍野村のレコーディングスタジオ、そして久保田一竹さんの美術館の工事。「今でも大きな大きな思い出」だという。

ログハウスフォーラムという共同組合の設立にも参画した。共同受注や部材の共同購入を目的としたもので、その共同受注として、北九州の小倉に700坪のログハウスをつくる計画にも携わった。カナダで開かれたログビルダーの世界大会にも、当時のスタッフ全員で参加した。

しかし、華やかに見える一方で、事業としての不安定さを宮下氏はずっと感じていた。ログハウスは安定的に受注できる仕事ではない。社員や仲間を抱えるなかで、経済的な基盤がしっかりしない。安定する商品がほしいと考えていたそのころ、大きな試練が訪れた。

「恥ずかしい話ですけど、今でも天罰が下ったと思います。経営上の焦りから、未収金が発生するような工事を行ってしまいました。当時の未収で1億2000万ぐらい発生しましたんで、非常に大きな試練だったと思います」

多くの人に相談した。半分以上の人が「やめた方がいい」と言うなら、それも天の声として潔く受け入れようと考えていたという。しかし、正直にすべてを話したところ、返ってきたのは「なんとか頑張れるだろう」という声だった。

「本当にいい意味でのエネルギーをいただいて、頑張りたいなと。頑張るというよりも、これは自分の天命だというものを、本当に少し感じました」

フィンランドのログホームとの出会い

住宅としてのログホームを提案できれば、安定した受注と経営ができるのではないか。そう考えていた宮下氏が出会ったのが、北欧フィンランドのログホームメーカー、ホンカだった。宮下氏はこの出会いを「神様の出会い」と表現する。

カナダや北米のログハウスといえば、丸太小屋の「ログキャビン」のイメージが強い。そこから一歩、二歩と進み、住宅として満足できる暮らしを実現する「ログホーム」へ。宮下氏自身もそうした変遷をたどってきたなかで、ホンカのログホームは日本でも十分に支持されると感じたという。

1996年には、第1回の日本ログハウス・オブ・ザ・イヤーをホンカの商品で受賞した。「この時はさすがに嬉しかった」と宮下氏は振り返る。1998年には日本のヘッドオフィスとなるデザインセンターを建設し、翌1999年には自宅もホンカのログホームで建てた。住宅としての提案が支持されるようになり、年を追って建設棟数は50棟、100棟と増えていった。現在は、手がけた棟数が450棟ほどになる。

専門的な知識がないところから好きで始めた事業だったからこそ、スタッフとともに学ぶ機会も大切にしてきた。フィンランドやドイツへのスタディツアーでは、本場の洗練されたものを実際に見て、エネルギーや環境への配慮といった課題にも触れた。それは会社にとって大きな財産になったという。

深刻ではなく、真剣に

会社が30年を迎えたころ、再び数億円規模の試練が訪れた。当時は10億円を目指し、規模を7億、8億と追っていた時期だった。「そこにやっぱり罠がありまして。要するに油断だね」と宮下氏は言う。そこで規模を小さくし、足元をしっかり見つめ直した。すると本年の決算では、4億円の売上で経常利益15パーセントと、これまでで最高の利益を出すことができた。

「同じことやってて、なんだったかな、みたいな。ラジオが周波数で音を出すのと同じように、人間的な周波数、生きている周波数を同調させなければ受注できないわけですよ。そのためにやっぱり人間力っていうのは大事になるかなと」

宮下氏がたどり着いた考えの一つが、人が成長する機会についてだ。

「人間って成長する時に、誰かのために、人のために。大自然、素晴らしい芸術。もしくは、どん底の苦労をしっかり受け止めて、己を素直に見据えたとき。大きくこの三つで、人間は成長する機会を与えられると思うんですよ」

同じことをしていても、うまくいく人といかない人がいる。その違いを見続けてきた宮下氏は、「思い込み」が違うのだと言う。良い思い込みをしている人は真剣に取り組み、悪い思い込みをしている人は深刻になってしまう。苦労の多くは経済的なものや人間関係だが、宮下氏はそれすらも前向きに捉えている。

「どん底の底を掘る楽しみっていうのかな。底を掘れば掘るほど、出てくる水が清いわけだから。そういう言い訳をしながら楽しんでる。いや、言い訳っていうか信念なんだけど」

組織についても、立場や地位、資格でコントロールするのではなく、理念を共有する形を目指している。舞台にはヒロインもいれば裏方もいるが、楽屋に戻ればみんな「お疲れ様」。一人ひとりの個性と可能性を仕事を通してサポートする会社にしたい、と宮下氏は語る。現在は海外から来たスタッフも働いており、効率を上げて有給休暇をしっかり取ってもらう、週休二日の建設業を目指している。

若者へ、ワクワクドキドキで人生を爆発させよう

宮下氏が今、夢として語るのは「建築をエンタメにする」ことだ。AIにできないことをやる。人が持つ個性と可能性をどう引き出すか。富士山の麓という土地で、仲間とともに発信していきたいと話す。

最後に学生へのメッセージを求めると、宮下氏は迷うことなくこう答えた。

「もうワクワクドキドキ。自分の人生、爆発させていきましょう。失敗はありえないわけですから。うまくいかないだけのことで」

うまくいかないこともある。けれども、それを素直に認めれば見えてくるものがある、と宮下氏は続ける。朝になればスズメは鳴き、季節が巡れば桜は咲く。文句を言うスズメも、疲れたから咲かない桜もない。

「人間だけ不平不満言ってるんで。インフルエンザよりもコロナよりも伝染力の強いのが、不平不満と不機嫌と笑顔。どれ選びますかって話」

過去にとらわれず、未来に不安を持たず、今をいかに大事にするか。その積み重ねが過去になり、可能性が未来になる。丸太との格闘から始まり、大きな試練を二度乗り越えてきた宮下氏の言葉には、「運のいい仲間をつくりましょう」という、若い世代への温かなエールが込められていた。

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