「職人でありたい人」のための会社を。四日市のプラント工事会社が掲げる脱オラオラ

社長村川 亮司

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コンビナートの町で、職人に憧れた十代

三重県四日市市。コンビナートの町として知られるこの地で、株式会社楓和工業はゴミ焼却場などのプラント工事を手がけている。社長の村川亮司氏は、20歳で独立し、会社は創業26年目を迎える。

事業を始めたきっかけを尋ねると、村川氏は「本当に大したきっかけがないんですよ」と笑った。勉強ができるタイプではなかったと言い、高校は1年で辞めた。四日市には、コンビナートに関わる職人が身近にいた。村川氏の親も、コンビナート向けに人材を派遣する仕事をしていたという。

高校1年生のころからアルバイトでコンビナートの仕事に行っていた村川氏は、学校を辞めたとき、身近にあったコンビナートのメンテナンスの仕事に就いた。ただ、その立場は職人とは言えない一作業員。現場ごとに言われた仕事を手伝い、物を運ぶ。そうした軽作業が、村川氏にはまったく面白くなかった。

「要は憧れるわけですよ、その職人さんに。自分もそういう職人っていう世界に魅力をどんどん引き込まれて、やっぱり自分でいろんなことをやりたいっていうふうに思って」

そうして一生懸命に勉強を重ね、20歳で独立する。「志も何もないし、何の考えもないけど、ただ職人になりたかった」。村川氏は当時の自分をそう振り返る。

ジェットコースターから焼却場へ

独立したものの、お金も道具も仕事もない時期が続いた。それでも、16歳から20歳までの4年ほどの間に知り合った人たちのつながりに助けられたという。「独立するわ」と言ったとき、「一緒にやろうよ」と言ってくれた仲間が3人ほどいた。

最初に手がけたのは、遊園地のジェットコースターをつくる仕事だった。当時は長島スパーランドと富士急ハイランドが、こぞって日本一のジェットコースターを建て合っていた時期。長島スパーランドのスチールドラゴンやホワイトサイクロン、埼玉の東武動物公園のレッジーナといったジェットコースターの仕事に携わった。

「そのジェットコースターを立てる仕事がすごく面白くて。しかもなんか後に残るでしょう。そのジェットコースター、俺ちょっと仕事でやってたよねって」

しかし、遊園地の仕事は長くは続かなかった。景気が悪くなり、ジェットコースターも年中どこかで建てられているわけではない。独立して1年目ほど、21歳のころには、仕事がどんどん減っていった。次のジェットコースターの計画がなければどうしよう。そんな不安は、一緒に働く仲間たちも同じだった。

転機になったのが、ダイオキシン規制をめぐる報道だった。規制を受けて全国のゴミ処理場で大規模な改修工事が始まったことをニュースで知った村川氏は、ゴミ処理という分野の将来性に目を向けた。

「ゴミって絶対なくならないでしょ。生活してたら絶対に出るんで、そこの分野ってやっぱりすごく将来にわたって安定してるなと思って」

安定的に仕事がなければ人もついてこないし、会社も成り立たない。そう考え、焼却場の専門的な業者になることを決めた。会社として本格的に動き出したのはそのころで、翌年の2003年に法人化した。「たまたま恵まれてるだけなんですよね」と村川氏は謙遜するが、そのうえでこう付け加えた。

「本当の最後の部分っていうのは、もう本当に運、神様の部分なんで、どんだけ徳を積むかですよ。本当にね、そこは本当に思いますよ」

職人か、そうじゃないか

経営者として大事にしていることを尋ねると、村川氏は寿司を例に語り始めた。世の中には大企業で働きたい人もいれば、そうでない人もいる。建設業にも大手ゼネコンのような大企業がある。では、自社のような小さな会社で働く人は何が違うのか。村川氏は、その違いは「職人か、職人じゃないか」だと言う。

「例えばスシローで寿司を握ってる人って、寿司職人って言います?言わないですよね。だけどお寿司屋さんで寿司を握ってる人って、寿司職人って言うでしょ」

大手で安定しているからと大手の店を選ぶ人もいれば、カウンター越しにお客さんを相手にする寿司職人になりたい人もいる。その差は「職人でありたいかどうか」だと村川氏は考えている。そして、職人かどうかを分けるのは、マニュアル通りに仕事をするかどうかだという。

決まったネタが運ばれてきて、機械でつくったシャリに乗せて出す。それは完全にマニュアル化された仕事だ。一方で、仕入れから魚の状態、天気や湿度までを自分で考え、経験をもとに握るのが職人である。

「僕らの仕事って本当に一現場一現場全然違いますし、その現場によってこういうふうにしたらいいとかっていうのがあって、自分らでコーディネートしながらやっていく。そこの部分をしっかり持つっていうことを、一番大事にしてます」

楓和工業の仕事は全国に及ぶ。取材時も社員が千葉県の現場に出ており、村川氏自身も翌週に長野へ向かう予定だった。全国から呼ばれるのは、会社の個性があるからだと村川氏は考えている。「うちにしかできないもの、うちの特徴的なところっていうのは、すごく大事にしてます」。

一社で監督から据え付けまで担う「総合職」

その特徴を、村川氏は「総合職」と表現する。建設業は細かく分業されており、ゴミ処理場のようなプラントを建設する際にも、鉄骨、足場、機械の据え付け、電気工事など、多くの業者が入る。楓和工業は、その職種の幅が広い。

「例えば機械を据え付ける、そのために足場を組む、鉄骨を立てる、で、機械を据え付ける、配管をつなげる、っていうところが一社でできる」

さらに、同社は管理業務、つまり監督としてのエンジニア業務も担う。社内に監督がいて、据え付けまで一通りできる。それが楓和工業の姿であり、その価値を高めていくことに今、力を注いでいる。

「うちに頼んでもらえれば、もう大体のものはやりますよっていうのがうちのコンセプトなんで」

協力会社はいるものの、仕事をお願いすることはあまりなく、年間を通じて自社の社員で仕事を進めることも特徴の一つだ。自社の社員が現場に入るからこそ、どこの現場でも同じクオリティを担保できる。それがお客さんとの信頼関係につながっていると村川氏は話す。

一方で、課題も率直に語った。社員は20人ちょっと。スケジュールが空いていなければ引き受けられず、仕事を断ることの方が多いという。その間に、別の業者がチャンスをつかむこともあるだろう。さらに利益率を重視しているぶん、価格は他社より割高になる。そうした不安要素も抱えながら、自社の強みを磨き続けている。

利益率にこだわる理由と「脱オラオラ」

会社の未来について尋ねると、村川氏は「大きくしたいとか売上目標とかじゃないんですよ」と答えた。唯一あるのは利益率。目指しているのは、何年も続いていく、継承していける会社だ。自分の子どもに継がせたいということではないという。

「今うちの社員に言うのは、自分が働いてる社員の子どもだったりとか友達だったりとかに勧められる会社を作っていきましょうと。うちの会社で働いたら、みたいなことを気軽に言えるような会社を作りたいなと思ってます」

そのために欠かせないのが、プライベートと仕事の割合だ。プライベートを重視したい人もいれば、仕事の比重を大きくしたい人もいる。一人ひとり違うその割合をコーディネートできるのが中小企業の良さであり、それを実現するには売上よりも利益が必要だと村川氏は言う。

「利益率が高ければ、やっぱり社員の自由度も増えるし、仕事とプライベートのバランスも取りやすいっていうのが僕の持論です。薄利だとそれができないんですよ。もう本当に時間で勝負しないといけないんで」

もう一つ、村川氏が掲げているのが「脱オラオラ」というコンセプトだ。建設業、特に職人と呼ばれる会社には、アウトローなイメージがつきまといがちだと村川氏自身も感じている。

「本当にものづくりが好きな人もおると思ってるんですよ。製造側のものづくりじゃなくて、現場の建設業のものづくりが好きな人。だけど、オラオラしてるような、ちょっとアウトローなイメージが強くて踏み出せないような子って、中にはいると思うんですよね」

そうした若者が来てくれたら。その思いを会社のコンセプトに据え、SNSでも「脱オラオラ」と発信している。社員の平均年齢は30歳と若い。ただ、焼却場の工事は公共事業のため、現場の写真や場所が特定されるような動画は載せられないという難しさもある。求職者の多くは求人媒体で同社を知り、SNSで雰囲気をつかむ流れが多いそうだ。「認知されなかったら衰退していくだけなんで」と、発信の大切さも口にした。

学生へ、ローカルな旅に出てほしい

最後に学生へのアドバイスを求めると、村川氏は意外な言葉を口にした。

「やっぱりね、ローカルな旅行に行った方がいいと思います」

たとえば沖縄に行くなら、マリンスポーツのように決まった目的を持って行くことが多い。三重県でも、伊勢神宮などの名所を訪れても、その土地のローカルな文化を知ろうとして行くことは少ない。けれども、国内でも海外でも、そうしたローカルな文化に触れる機会を多くつくった方が人生は豊かになり、働き方や働く目的も変わってくると村川氏は考えている。

「そういう経験をたくさんすると、本当に心も発想も豊かになって、働くのも自分の中で意味を作ったりとか、目的を作れたりとかするんで。ただお金が欲しいから働くっていうんだったら、要は代わりになりやすい人材になるというか」

人生においても仕事においても、意味を持たせることが大事だと村川氏は言う。そして自身は、一つひとつの行動で徳を積むことを意識しているそうだ。それは人からの見られ方とは違う、自分の中に積み重ねていくものだという。

高校を辞め、20歳で独立し、ジェットコースターから焼却場へと道を切り替えてきた村川氏。「たまたま恵まれていた」と語るその歩みの根っこには、職人でありたいという思いと、一緒に働く人を大切にする姿勢が一貫して流れていた。

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