株式会社スカイ電子 代表 廣林 孝一

売上が10分の1になっても諦めない。高知で発電機の可能性を追う電子部品メーカー

代表廣林 孝一

公開 取材・文 ローカル文庫 編集部

この記事について

会社
株式会社スカイ電子
所在地
高知県
話を聞いた人
代表 廣林 孝一
公開日
2026.10.18
聞き手
ローカル文庫 編集部

オイルショックで迫られた「自分で生きていく」道

高知県の株式会社スカイ電子は、発電機をベースにした製品の開発を手がける会社だ。小さな発電機から低回転で出力10kWまでのコアレス発電機をシリーズでそろえているのは、国内では同社だけだという。代表の廣林孝一さんは、電子部品のものづくりの現場で、時代の大きな波を何度もくぐり抜けてきた。

廣林さんが独立する前に勤めていたのは、大手電機メーカーの協力会社、いわゆる下請けの会社だ。そこで約30年近く働き、新規事業の会社の立ち上げや新しい仕事づくり、開発、営業とさまざまな仕事を経験してきた。

開発の仕事に本格的に取り組むきっかけになったのは、昭和48年のオイルショックだった。

「“下請けの会社は、これからは自分で生きていく事を考えてください” と、大手の親会社の方から通達され。生き残るために何か動き出さないといけないなという形で」新しい分野の仕事を模索し考えました

当時の会社は、テレビの電源部に使う巻線抵抗器をつくっていた。生き残るために、新たにコイルの開発に取り組み、社内で生産を始め、大手メーカーのモーター事業部にコイルを納入出来る体制とルートを確立し、新会社を設立。これが、廣林さんとコイルとの関わりの始まりだ。

10.jpg

台湾、そしてウォークマンの時代へ

その後、廣林さんは国内外の工場を渡り歩くことになる。工場は立ち上げて軌道に乗っても、何年かの周期で厳しい時期がやってくる。その立て直しのために、同じ工場を2〜3回立て直したこともあるという。

コイル事業が軌道に乗り次に巻線抵抗器を新たに自社開発して販売することになった時は、親会社から国内とアメリカ市場での販売は認められず、ヨーロッパ向けの規格に合わせた製品を開発製造し売り出すことになった。ドイツのコンデンサーメーカーが代理店となり、月産50万個ほどの生産規模に成長。昭和52年には台湾に工場を新設し、3年ほどで軌道に乗せて、日本に戻りコイル事業会社の立て直しに尽力し、新たにコイルの成形技術を取得し昭和57年、新工場の起上げに伴い責任者として、高知県にやってきた。ちょうどソニーのウォークマンが市場で急拡大した頃だ。ウォークマンを動かすモーターのコイル部分にあたる「ステーター」を高知工場で製造し、親会社に供給していた。

「月10万個ぐらいの計画予定だったが、もう爆発的に販売が増大して、月30万個まであっという間に伸ばしたんですよ」

3億円ちょっとの投資を、3年で回収できたという。「そういう時代にちょうどあったということは確かですね」と廣林さんは振り返る。

DSC05222.jpg

45歳での独立と、月産600万個のピーク

高知の工場も軌道に乗った頃、再び転勤の話が持ち上がった。廣林さんはすでに45歳。高知で家を建て、もう転勤はしないと会社のトップとも話していた。それでも別の工場の立て直しのために転勤を求められ、廣林さんは退社を選んだ。そして昭和62年1月、スカイ電子を創業した。

高知県はもともと廣林さんの地元ではない。前の会社の社長の出身地に新しい工場を建てることになり、その責任者として赴任したのがきっかけだった。転勤で来た土地に家を建て、根を下ろし、そして自ら会社を興す。スカイ電子は、そうした廣林さんの決断から生まれた会社だ。

創業後、スカイ電子はDDモーターコイル・プリンタ用コイル等の生産でスタート、その後CDのピックアップ用のコイル・ハードディスクのヘッド駆動部のコイル、携帯電話の振動用モーターのコイルなどの生産を手がけた。ピーク時には月産600万個ほど生産。正月とゴールデンウィーク、お盆以外は、土日祝日も関係なく、24時間3交代でフル稼働していた。

昭和の時代について、廣林さんは「新しいものを出したら何でも売れる時代だった」と話す。今はスマートフォンのように、全く新しいものが次々と生まれる時代ではなく、熟成された時代に入っているという。

DSC05409.jpg

仕事が10分の1以下に。会社を支えた発電機の可能性

国内に残ると思っていた先端電子部品の生産は、やがて一つずつ海外へと移っていった。最初にCDのピックアップ、次に携帯電話の振動用モーター。最後に残ったハードディスクのコイルも、平成16年頃に松下電器がハードディスク事業から撤退したことで、年間売上4億円以上の売上が一気になくなった。

「一気に仕事量が減りましたね。10分の1以下に減りました」

会社を存続させるため、60人ほどいた従業員を10人ほどまで絞り込まざるを得なかった。付き合いのある友人からは「会社を一旦閉鎖したほうが楽じゃないか」とも言われたという。

それでも廣林さんが会社を続けたのには、理由があった。取引先に迷惑を掛けたくないとの思い、平成11年頃から発電機の開発に取り組み、平成14年2月に最初のアウターローターコアレス発電機を完成させ平成16年1月より一般ユーザー向けの外販を開始しいた。

「発電機っていうのは、これからの柱になるだろうという可能性を求めていたから。それがあったから、なんとかしないという思いで頑張ってきた。その発電機がなかったら、その時に工場は閉鎖していたでしょうね」

平成17年に京都議定書が発効され、同社の発電機は注目を集めた。一時は年間売上を1億2000万円ほどまで戻したという。しかしその後、風力発電の固定価格買取制度(FIT)の買取価格が大幅に引き下げられ、小型風車業界全体が縮小。発電機だけで年間7000万〜8000万円ほどあった売上は、今は2000万円に届かない状態だという。

コイルの生産は、機械で巻くとはいえ労働集約的な仕事で、大量生産品はほとんどが中国や東南アジアに移った。かつてフル稼働していた機械も、今動いているのは4〜5台ほどだ。それでも廣林さんは、発電機を軸にもう一度売上を伸ばしたいと考え、挑戦を続けている。

DSC05382.jpg

人が漕いで電気をつくる「エネトレバイク」

今、スカイ電子が力を入れているのが「エネトレバイク」だ。スポーツジムにあるスピンバイクに同社の発電機のシステムを取り付け、人が漕いだ力を電気として取り出す。

「瞬間的であれば640W出力しています。15秒間の平均であれば490Wほどの出力を記録した実績があります」

その電気をバッテリーにためておけば、店内の照明に使ったり、災害時には携帯電話の充電に使ったりすることができる。中国の製品には数十W程度の類似品はあるが、何百Wも出力できるものはまだないという。

15年ほど前に開発した、出前授業などで自ら電気を作る事を体感して電気を無駄にしない事を考えてもらえる自転車発電機「エネトレ」は、これまでに国内で約300台を出荷し、学校などにも納入してきた。一人の人がこの機材を使って1分間平均280ワットを出力したという世界記録は、今も破られていないそうだ。

ただ、エネトレバイクはまだ広く知られておらず、スポーツジムとのつながりもこれからだ。スカイ電子は平成12〜13年頃から、ホームページを営業の最前線と位置づけ、社内で制作してきた。特殊な製品だからこそ、必要とする人がホームページを見て問い合わせてくれることが入り口になる。YouTubeでの動画発信も自社で始めているが、「十分にできていない部分がある」と廣林さんは話す。

ホームページの制作は、平成10年頃に高知県内で開かれていたパソコンの勉強会がきっかけだった。社員が勉強会で学んだことを生かして自分たちでつくり始め、少しずつレベルアップしながら今に至っている。自分たちの手でできることは自分たちでやる。その姿勢は、ものづくりにも発信にも共通している。

また、本当の意味での再生可能エネルギーとして工場などから排出される排風を利用して風車を回し発電をする「ダクト風車」の可能性を模索している。ただ捨ててしまっている風のエネルギーを再生して電気エネルギーとして活用する。SDGsの方針に沿った製品だと考えており、少ないエネルギーを集めて使うエネルギーハーベスティングの考え方にもあっていると考える。大手の企業からの問い合わせも増えており今後の展開を期待している。

学生ライターが「この技術がもっと多くの人に知られてほしい」と伝えると、廣林さんは「いい知恵があったら、ぜひアドバイスをいただけたらありがたい」と応じた。若い世代の視点を柔軟に取り入れようとする姿勢が印象的だった。工場にはエネトレバイクなどが設置されており、訪ねてくれれば体験させてもらえるという。

Gemini_Generated_Image_f0lagsf0lagsf0la_-768x560.jpg

学生・若者へ、諦めないことと信頼関係

現在の従業員は、廣林さんを含めて14人ほど。人員を絞り込んだときのメンバーが、今も残ってくれているという。発電機をベースにした仕事を、この従業員たち、そして次の世代に託したい。それが廣林さんの思いだ。

最後に、学生時代にやっておいたほうがいいことを尋ねると、廣林さんは二つのことを挙げた。一つ目は、諦めないことだ。

「何かをやりかけたら、途中で投げ出さないことですね。諦めないことですね。諦めたらそれでしまいなんですよ。自分が本当に納得いくまでは頑張ってみる」

納得がいかなくなれば、打ち切らなければならないときもある。それでも、持てる力を精一杯出して、乗り越えようとしてみることが必要だという。

そしてもう一つが、人と人とのつながり、信頼関係を大切にすることだ。

「本当に10分の1以下に売上が落ちたときに、やっぱりいろんな人に助けてもらったから、しのいで乗り越えることができたんですよ。助けてもらわなかったら、存続していなかった会社かもわからないです」

オイルショック、海外での工場立ち上げ、ウォークマンの時代、そして主力事業の消失。環境が変わるたびに次の道を探し、今は人の力で電気をつくる分野で踏ん張っている。「若い人がこれからどう頑張っていってくれるか、期待しています」。そう語る廣林さんは、次の世代に会社を渡せるよう、今日も挑戦を続けている。

IMG_1517.jpeg

この会社に興味を持った方へ

株式会社スカイ電子のこの会社のサイトを見る

まだ知らない景色を、一緒に見に行こう。

あなたの会社のストーリーを、学生に届けませんか?

取材・掲載は無料、オンラインで約60分です。

LINEで取材を相談する

学生の方へ

活動について、LINEで話を聞いてみる。

LINEで話を聞いてみる