狭い家で育った少年が、建築にのめり込むまで
三重県四日市市のトータルアシストプラン株式会社は、住宅の設計から施工までを手がける会社だ。代表の堤久夫氏が独立して25年。古民家の再生にも取り組み、新卒で入社した若者たちを「弟子」として育ててきた。
堤氏は工業高校の建築科を卒業後、推薦で愛知工業大学の建築科に進んだ。建築を学んだ期間は計7年になる。ただ、最初から建築が好きだったわけではない。
「受験勉強したくないなと思って工業高校を選んで、そのまま就職しようと思ったんですけども、クラブの仲間が、建築科のほうが個性が生かせるみたいなことを熱く語ったもので、じゃあ僕も建築科にするか、と」
四日市にはコンビナート群があり、機械系の学科に進めば工場の中で安定して働くルートもあった。それでいいのか、と語る友人の言葉に背中を押された形だった。
勉強は苦手だったが、建築だけはすんなりと頭に入ってきた。なぜだろうと考えたとき、思い当たったのは自分の育った家だったという。
「うちの家ってすごく狭い家だったんですよ。ぎゅうぎゅう詰めのところで5人家族が住んでて。兄弟がいても同じ部屋で、異性なのに、みたいなところで。自分の部屋が持ちたいなっていうルーツがあって、建築にはまったのかなって感じですね」

設計から施工まで、全部を手がけられる場所を求めて
大学卒業が近づき、進路を考えた。設計がやりたい。けれど大手の設計事務所に入れば、部分部分の設計しか担当できない。かといって、「先生」と呼ばれる著名な建築家の事務所に行けば、月に3万円や5万円ほどの小遣いで働くような世界だった。
「自分で自活したいなと思って、自分が出した結論は、住宅会社で全部一から十までプロデュースできて、ちゃんとお金ももらえるところ、ってなったときに、菊池建設という会社が合っていたんです」
オーダー性のある住宅づくりをしていたその会社は、和風住宅に特化していた。堤氏は和風住宅の勉強をしながら、設計者としてのキャリアをスタートさせた。
意見をどんどん言う新人だったといい、先輩からは冗談まじりに「カミソリ」と呼ばれていたそうだ。最初の配属は千葉。1年半後に東京へ移り、コンピューターを扱う部署の立ち上げに関わったが、あまり面白くなかった。その期間を使って資格を取り、社長に直談判して現場の仕事に戻してもらった。希望したのは京都営業所だった。
京都では6年間、設計を担当した。その後、京都の営業所を閉じることになり静岡へ。結婚し、家族の事情もあって、11年勤めた会社を退社。両家の両親が暮らす四日市に戻ることを決めた。

四日市で独立、そして「ゼロからのやり直し」
四日市に戻ってすぐ独立したわけではない。まずは地元で勢いのある住宅会社に5年間勤めた。事業の勉強をさせてもらい、可愛がってもらったが、会社の方向性は自分のやりたい形とは違っていた。理解を得て円満に退社し、独立したのが25年前のことだ。
独立当初は、声をかけてくれる人も多く、大きな新築の仕事にも恵まれた。設計だけでは先々食べていけなくなるだろうと考え、住宅に限って、自ら設計したものを自ら施工する「設計事務所が工事をする」というコンセプトを掲げた。
しかし、順調なスタートには落とし穴もあった。
「職人さんとか業者さんとか、いいことを言ってくれる人と、きっちり悪いことも言ってくれる人がいるんですけど、そのときって一生懸命で、ちょっとイケイケになっちゃってるんで、いいことを言ってくれる人を使っちゃうんですよ。まあ結果的には、あんまり良くなくて」
お客さんに迷惑は一切かけなかったが、知らないうちに商売の内側が苦しくなっていた。独立して3年ほど経った頃、堤氏は決断する。
「もう一回ゼロにして、一から自分で現場でやり直せ、みたいな。小さな仕事から自分でやったりとか」
社長自ら現場に入る姿に、お客さんは不安そうだったという。それでも仕切り直して半年ほど経つと、手を貸してくれる職人が次々と現れた。
「苦しいと思ったことはないんですけど、周りから見たら大変だったね、っていう感じで。まあ、一生懸命やってただけですね」
受けた恩は、次の世代へつなぐ
独立して5年ほど経ち、会社が落ち着いてきたとき、堤氏はふと考えた。自分だけなら、もうこれで食べていける。けれど、それだけでいいのか。
「自分が今どうやって成り立ってるのかっていうと、先輩とかに見返りを求めずに教えてもらったからなんですよね。恩返ししようとしたときに、その人たちに返すんじゃなくて、次の世代につなげていくことが恩返しだって思ったんです」
その思いは、古民家の再生にもつながっている。堤氏は10年ほど前から、全国古民家再生協会の三重県の代表を務めている。手の込んだ技が入った家でも、古い、寒いというだけで壊されてしまうことが多い。
「それって、ずっともったいないんですよね」
いいものだけは残していきたい。そして、その技術を次の世代の職人たちにつなぎたい。古民家を本格的に直す仕事には、そうした思いが込められている。
一方で、こだわった和風の家づくりにお金をかけようという人は少なくなっている。職人が技術を持っていても、仕事として成り立たなければ続けることはできない。職人は技術者であり、今の経済の中で営業活動をするのは難しい。だからこそ、設計の立場にいる人間が仕事を取り、職人とつなぐ場面を増やすことが自分の役目だと堤氏は考えている。
「その辺の意志と、変な正義感だけで頑張れてますけど」
協会の活動は、ビジネスとしてはぎりぎりで、ボランティアに近いという。それでも、同じ思いを持つメンバーと技術や地域性の違いについて語り合えることが「見えない財産」になっていると話す。

新卒の「弟子」たちと、枠にはめない働き方
次の世代につなぐ。そう決めてから、堤氏のもとには新卒の若者がやってくるようになった。「企業には行きたくないけど、住宅の設計がしたいし、ちゃんと生活もしたい」。そんな学生が紹介などの縁でつながり、2〜3年おきに入社してきた。現在の社員は堤氏を含めて8人。全員が新卒入社だ。今年は、インターンシップをきっかけに大学院を修了した学生が入社したという。
堤氏が弟子たちに最低条件として伝えていることがある。
「自分の家を、自分の力だけで、設計から申請から工事から全部できるのが実力だよ、って」
有名な大学で建築を学び、大きな会社に入っても、実家のメンテナンスを頼まれたときに何もできない。それは建築を学んだ実力と言えるのか、というのが堤氏の考えだ。実際に、女性社員のなかには自分で設計した家を建てて暮らしている人もいれば、古民家を購入して改修し、住んでいる人もいる。
結婚や出産を経ても、パートや在宅勤務で働き続けている社員も多い。子育てをしながら、空いた時間で広報やSNSを担当している社員もいる。
「融通を利かせて、枠にはめずに、できる時間でやってもらう。それだけで優秀な人がいてくれるなら、本当にこっちもあっちもいいので」
高校卒業時に「大工になる」と言い出した堤氏の娘は、厳しい大工のもとで7年修業して独立。今は現場のつなぎ役として会社の仕事を手伝っている。現場が苦手だった設計担当の社員たちも、再び現場に関われるようになったという。
今後の10年は「つなぎのために頑張る」と堤氏は話す。すべてを丸ごと継いでもらうのは負担が大きいため、設計、工事と適材適所で分散して引き継いでいきたい。弟子たちに見返りは求めない。
「ちゃんと自立して、木造の部分的なことでもいいので、次につなぐような仕事、生活をしててくれたらいいかなと思ってます」

学生・若者へ、手づくりの家に込める日本人の魂
最後に、学生へのメッセージを求めると、堤氏はものづくりに宿る「日本人のスピリッツ」について語った。
「同じ金額で簡単にも作れるんだけども、どうせならもう一工夫してかっこよく作ろう、っていうのが、ものづくりの好きな人には出てくるところがあって。住宅もそういうところがあります」
けれど最近の家づくりは、型にはまったパッケージが多く、建具一つとっても気持ちを込める場面が少なくなった。堤氏はそれを少し寂しく感じている。
「いい建物、手づくりの建物を支持していただければ、どんどんそれは残って、日本人の魂として住宅という形で表せるので。ぜひその辺に気がついていただく機会になるとありがたいです」
企業に勤めなくても、自立しながら住宅の設計をしたいと考えている人はきっといる。けれど、かつての自分のように、そういう働き方との出会い方がわからない人も多い。人を「駒」ではなく「弟子」として迎える堤氏の会社は、そうした若者にとって、一つの道を示してくれる場所なのかもしれない。


