「頼まれたら断らない」長泉町の東平商会が三島コロッケから広げた多角経営

代表取締役山本 雅弘

  • #運輸・物流
  • #インタビュー

社名に刻まれた「相手の立場に立って考えなさい」

株式会社東平商会は、静岡県駿東郡長泉町に本社を置く会社だ。倉庫業のほか、業務用の食品卸、土木の工事、浜松の縫製工場と、いくつもの事業を手がけている。創業はおよそ70年前。代表取締役の山本雅弘氏は、祖父が興したこの会社の三代目にあたる。

「東平商会って変わった名前だなって言われますし、自分でも格好悪い名前だと思うんです」と山本氏は笑う。ただ、その名前には創業の思いが込められている。「東」は、創業以来お世話になっている東レの「東」。そして「平」は、祖父の恩人である平田徳次郎氏の「平」から取ったものだという。

「平田徳次郎さんが常に言っていたのが、『常に相手の立場に立って考えなさい』という言葉で。祖父はその教えを忘れないように、平田さんの『平』の字を会社の名前に付けたと言われています」

相手の要望をくみ、相手の意に沿って仕事をする。その考え方がもう一段進んで、相手から言われたことを簡単に断らずにやってみるという、挑戦のマインドが社内に根づいていると山本氏は話す。

地域で商売をする会社として何より大事にしているのは、周りとの信頼関係だ。お客さまや地域の人たちから信頼されているからこそ、さまざまな要望が寄せられ、仕事がつながっていく。

「小さな、目の前の約束から守っていかなきゃいけないとか、早く答えてあげなくちゃいけないとか。そういう身近なところから、信用を少しずつ積み重ねていくことを大事にしています」

頼まれたら断らない。そこから生まれた多角経営

会社の始まりは、東レの三島工場ができたことにさかのぼる。工場の周辺業務を担う下請けが必要だと頼まれ、山本氏の祖父が東平商会を創業した。当初は、工場の製造に付随するさまざまな仕事が中心だった。合成繊維の増産が続き、人をいくら入れても足りないほどの勢いだったという。そうしたなかで東レからいろいろなことを頼まれ、その頼まれ事を形にするうちに、事業が次々と立ち上がっていった。

浜松の縫製工場は、もともと東レがつくる繊維資材を加工するために設けたものだ。現在はプレジャーボートと呼ばれるモーターボートのシートやカーペットといった内装品を手がけている。非常にニッチな市場だが、それだけでは業績が安定しないため、キャンピングカーや飲食店の内装、子ども向けのクッションなども製作している。

土木の工事部門も、東レがつくる土木資材の販売から始まり、施工も任されるようになって今の形になった。得意とするのは、斜面を保護し安定させる法面工事だ。豪雨災害で斜面が崩れたり、崩れそうな箇所が出たりすることが増えるなか、法面工事の需要は高まっている。一方で土木を志す若者が減り、担い手となる会社の数も減っているため、忙しく仕事をさせてもらっているという。

そして食品部門にも、東レとの意外な縁がある。かつて東レが漁網を日魯漁業(当時)に販売しようとしたところ、代わりに日魯漁業がつくる冷凍食品の走りだった「スティック」という、魚のすり身を棒状に固めた商品を買ってほしいという話になった。東レ自身は買えないため、下請けの東平商会がスティックを仕入れて三島工場の社内で販売してはどうか、という依頼が来たのだ。

「普通、断るんじゃないかなと思うんですけど、それをやるって言って始めたらしいんです」

スティックはあまり評判にならなかった。それでも諦めず、ちょうど学校給食で冷凍食品が使われ始めた時期と重なったことから、ほかの冷凍食品も仕入れて給食向けに卸すようになった。そこから少しずつ、業務用食品の会社へと成長していったという。

「元をたどると、東レさんのためにとか、東レさんに頼まれてとか、誰かから頼まれてやっているという感じなんですよ。もうちょっと戦略的な感じがあってもいいのかもしれないけど、うちの場合は、なんかやっちゃうみたいなところから多角経営ができてきたんです」

お荷物だった食品部門と、三島コロッケの誕生

今では売上の7割を占める食品部門だが、かつては「お荷物」のような存在だった。もともと食品の会社ではなく、後発で卸売に参入したため、専門家もいない。どうやって利益を出せばいいのかわからないまま走り出し、安売り合戦に巻き込まれて赤字体質から抜け出せずにいた。

中間流通である卸売が生き残る道として、山本氏は本などで学んだ「川上戦略」と「川下戦略」を検討した。消費者に直接売る川下に進めば、卸先のお客さまと競合してしまう。そこで、自らものをつくるメーカー的な立場である川上を目指すことにした。まず取り組んだのが、中国からの冷凍野菜の輸入だ。他社から仕入れていた商品を自社輸入品に切り替えると、量も多く、ひとつの差別化につながった。

そんななか、20年近く前に三島市の「三島コロッケの会」から相談が舞い込む。B級グルメが各地で立ち上がり始めた頃で、三島でも三島コロッケを始めたものの、1年ほど経っても経済効果が出ないという。

三島コロッケは、三島市の山のほうで育つ三島馬鈴薯を使うのが決まりだ。ところが三島馬鈴薯の収穫期は6月から8月ごろの年1回だけ。保存しても秋には芽が出てしまい、1年を通して販売できない。市内の飲食店や精肉店に呼びかけても、手を挙げる店は多くなかった。

そこで生まれたのが、冷凍の三島コロッケをつくるという発想だった。コロッケにして冷凍すれば1年間もたせることができ、手間のかかるコロッケづくりをしなくても、そのまま店で出せる。社内では「三島コロッケなんて売れるのか」という反対もあったが、やってみると販売量はどんどん増えていった。

「うちのお客さまも、B級グルメブームに乗って、そういうご当地グルメがあるんだったらぜひ使いたいと。例えばホテルのバイキングで使いたいとか、うちの販路にすごくはまりまして」

三島市が宣伝してくれ、外から問い合わせが来る。冷凍の三島コロッケを手がけているのは東平商会だけなので、話が集まってくる。そんな好循環が生まれ、山本氏はこれがビジネスモデルとして面白いと感じた。

ご当地グルメから畑づくりへ、広がる挑戦

三島コロッケの成功を受けて、本社のある長泉町にも新たなご当地グルメを提案した。町から「考えてください」と言われて生まれたのが、地元のブランド牛であるあしたか牛に、特産の長泉白ネギを掛け合わせたメンチカツだ。ちょうど合格祈願の食べ物が話題になっていた頃で、名前を縮めて「あしたかつ」とした。町も面白がり、受験生を応援するご当地グルメとして、高校受験の前日の学校給食で使われたり、町の駅伝選手への差し入れになったりと、町の応援食として根づいていった。

伊東営業所では、社員が自ら考え、伊東で多く水揚げされるサバを使ったナゲットを開発した。発売から10年以上が経ち、魚を食べやすくする料理を競う東京の大会で1位になったこともある。魚が苦手な子どもにも喜ばれ、販路を広げ続けている。

人参ジュースも、社員の声から生まれた商品だ。三島の高原で育つ「箱根西麓三島野菜」は、富士山の火山灰土で育つ。水がしみ込みやすい斜面の土地は根菜にとって過酷な環境で、そのぶん一生懸命に水分や養分を吸い上げ、甘くおいしい野菜が育つといわれている。農家に「野菜ならそんなに味は変わらないでしょう」と話したところ、食べ比べてみてと勧められた。口にした人参は、少し大げさに言えば柿のような甘さだったという。

ところが缶のジュースにするには、最低でも20トンの人参が必要だった。農家や農協に相談しても、急にそれだけの量は用意できない。当時は耕作放棄地が増え、生産者の高齢化も進んでいた。社内から農業をやろうという声が上がり、自社で畑を借りて人参を育て、収穫した人参をすべてジュースにする取り組みを始めた。それから12年ほどが経つ。

当初は営業や管理職の仕事と兼務で商品化を進めていたが、今は開発専門の組織をつくり、毎年新しい商品を生み出している。学校給食のほか、ホテルや旅館、飲食店のメニューに使われ、人参ジュースは土産物店や直売所、サービスエリア、駅の売店、自社のECサイトなどで販売されている。

漫画家志望から総合商社、そして三代目に

山本氏自身は、最初から家業を継ぐつもりでいたわけではない。子どもの頃から、継がなければいけないのかなという責任感は感じていたが、大変そうな姿を見て、できれば別の道に進みたいという気持ちもあった。絵を描くのが好きで、漫画家になりたいと思った時期もある。マスコミ関係など、別の分野を志望したこともあった。

それでも就職活動の時期を迎え、最終的には父の会社を継がなければと腹をくくった。ただ、いきなり入社するのではなく、どこかで学んでから戻ろうと考えた。理工学部の電気工学科で学んでいた山本氏は、理系出身者が文系の職種に就職するのがまだ珍しかった1980年代に、総合商社の三井物産に入社する。

三井物産では10年間働いた。10年やってもまだ学び足りないと感じていたが、晩婚だった父はすでに70歳を超えていた。そろそろ卒業しないと間に合わない。そう考えて地元に戻った。

「時間の流れが全然違いましたし、仕事の仕方も全然違ったので、最初はちょっと頭が痛くなっちゃったりして、慣れるのに時間がかかりました」

社長業のやりがいを尋ねると、山本氏は、結果がすべて自分に跳ね返ってくる仕事だと答えた。業績が良ければうれしいし、悪ければ大きなダメージを受ける。ただ、それは一人では何もできない。社員が賛同し、みんなでつくり上げた結果として業績を達成できたとき、その喜びを分かち合えることが原動力になっているという。

部長職には「新しいことをしよう」と言い続けている。新しいことにはお金もリスクもかかり、商売は守りと攻めの両方で成り立つ。現場はどうしても維持する方向に傾きがちで、「やってみない?」と持ちかけても渋られることもある。それでも、社内公募で手を挙げた社員が土木の部門に移り、大活躍しているという例もある。求める人物像は、チームワークを大事にし、周りとうまくやっていけるコミュニケーション力のある人。そして、新しいことに挑戦したい人だ。

学生へ、大いに悩んで成長してほしい

就職活動に悩む学生へのメッセージを求めると、山本氏は自分の歩んできた道を振り返った。漫画家になりたかったが、医師を目指して理系に進み、もともと理科や数学が好きではなかったこともあって理工学部の勉強はあまり面白くなかった。だから文系の職種に就職しようと考え、理系だったからこそ総合商社に入ることができた。

「大谷翔平みたいに、小さい頃から将来こうなりたいと書いていたわけじゃなくて。考えていることは違ったんだけど、最終的には今の自分のところに、結果としてうまくたどり着いたなと思っているので。本当に、悩めば悩むほど成長すると思います」

今は転職も当たり前の時代になり、自分のキャリアを磨くためにさまざまな経験ができるようになった。だからこそ、自分の可能性を信じて、まずは目の前のことに一生懸命取り組み、そこから次のステップに進んでいけばいいという。

「修羅場をくぐると、人って成長するんですよ。悩むのは大いに結構だし、悩んでいる姿は、自分自身はつらいかもしれないけど、周りから見ると割とかっこよく見えたりすると思います。大いに悩んで、成長してください」

地域の自治体には、最初は都会で就職してもいい、30歳ぐらいになったら戻ってきてほしいと呼びかけているところもある。自身もまさにそのパターンだった山本氏は、外の世界でノウハウを吸収して戻ってくるのもキャリアとして面白いと話す。

東平商会の仕事は、食品の営業、土木の現場、縫製工場など、現場に根ざした実直なものが多い。それでも70年にわたって地域との信頼関係を築いてきた会社だからこそ、新しいことに挑戦できる土台がある。頼まれたことを断らずに形にしてきた会社は、今、一緒に自分の可能性と会社の可能性を広げていける仲間を待っている。

この会社に興味を持った方へ

山本 雅弘の採用情報を見る

まだ知らない景色を、一緒に見に行こう。

ローカル文庫の活動に参加してみませんか?

学生だからこそ出会える、地域と仕事があります。

参加する